|地蔵倉


 奇岩が連なる肘折温泉開湯伝説の聖地、老僧が住んだと言われる「倉」(がけの窪地)です。
 後に「地蔵倉」と呼ばれるようになり、今では縁結びや、商売繁盛の神さまとして知られ、多くの人がお参りに訪れます。

~ 肘折温泉のはじまり ~
 大同二年(807)って言うがら、ずうっとずうっと昔、1200年以上も前のこと。
豊後の国(今の九州大分県)の、源翁(げんおう)って言う、としょった(年取った)お坊さん(山伏)が、日本全国のありがでお山ば、お参りしてまわっていたんだっけど。
出羽三山は、とってもありがでお山だと聞いたもんだから、そればめざして、最上川ば来たら、えだの川(烏川(いまの銅山川)の上の方がら、お坊さんが着る布(唐穌→カラソ織りの布→紵麻)が流れできたなば見つけだなんけど。
「これは、上(かみ)さ登って行げば、誰が居だな、まずげね(間違いない)。」って、木の枝やら葛の蔦ら(くずのつた)やば頼(たよ)て、崖(がげ)ば、にじり登って来たなっげと。んだげっとも、あんまり山深(ふっけ)くて、とうど道さ迷ってしまったんだっけどは

んだげっと、あっちだこっちだって彷徨って歩いっでっと、一人の年とったお坊さんど会ったんだど。たまげだ(魂消た)ごどさは、その坊さんの頭の後ろさ後光がさしていたんだっけど。
腹へって動がんねぐなってっだ源翁、「どうが何がかせでけらんねべが」って願ったどご、お坊さんまだ、お堂の岩がら沁み出った、水みでな汁ばの飲ませでけっだなぁけど。

その汁まだ、甘こくてんまくて、一ったりで三日も腹いっペで、力こ出んなっけど。
ほして、そのお坊さん、源翁ば雲さ乗せで、月山どが湯殿山どが葉山どがさ案内してけっだんけど。
ほげなごどしてるうず、三日だど思ってだら、三年もっ経ってだっけどは。
最後に、そのお坊さんがら、不思議な形をした岩がごつごつと連なる崖の下の所に連れていがって、こう話しさたんだっけど。
「わしは地蔵菩薩である。百年前に、この崖から落ちて、肘を折った。苦しくて苦しくてたまらなかったが、岩の間から湧き出る温泉を発見し、その流れる温かなお湯につかったところ、たちまち痛みがとれて、傷も治った。この温泉の効き目は、まことに素晴らしい。できることなら、そなたにも、ここに住んで、この不思議なお湯のことを知らせ、みなの病気の苦しみを治してくれないか。」
こういうと、お坊さんの姿、すうっと消えてしまったんだどは。
源翁は、たいした魂消だげっとも、じんぞさま(お地蔵様)の頼みどおり、「地蔵倉」さ住んで、この温泉ば「肘折温泉」って名前ば付けで、守り続けたんだど。
んだから、この温泉さは、「南無肘折地蔵大菩薩」って、三返唱えでがら入る慣わしがあったんだど。
(やまがた 伝説考より 一部改編)

|薬師(湯座)神社 周辺


 明徳元年(1390:室町時代)7月14日 創建で、明治10年8月 村の神となったとされています。
「本殿」は、縦3間、横3間半で、現在の社殿は再建されたものと言われていますが、いつ再建されたか不明です。
「祭神」は、少彦名神(すくなひこなのかみ)と言われていますが、良くわかっていません。

 現在は、この神社を薬師神社とか湯坐神社と呼んでおり、次のような、お湯にまつわる薬師伝説が残されています。

~ 薬師さま ~ 
 肘折の名を有名なものとしている温泉(上ノ湯)が、一時枯れてしまった時があった。
 村人は困ってしまい、その原因を突き止めようと総出でその湯元を掘ったところ、一つの石にぶつかった。
 その石を取り出したところ、待ち望んでいた湯が噴き出したのだった。
 そこで、その湯を止めていた石をよく見ると不思議なことに、その石が何かの像によく似ていた。
 村人は、その石を何かの神様の像に違いないと固く信じ、高山武右衛門(現在の高山衛さんの祖先)が、何の神かつきとめようと、京都の専門家を訪れてその石を鑑定してもらったところ、「まさしく薬師如来像である」と言われたのである。
 そこで木の薬師如来像を彫ってもらい、その石とともに安置したのである。

 これが今日まで続き、温泉の守り神として、また人々の心を安らかにしてくれる神様として親しまれています。

 毎年8月20日湯坐(薬師)神社祭礼で奉納角力大会も行われており、「花車」などの伝説も語り継がれています。

お稲荷様

 村松家(松ノ坊)の氏神様で、穀物の神。
 薬師神社奥にあります。

|秋葉山


 その詳細についてはよくわかっていないませんが、肘折は昔20年の短い間に3回もの大火があったと言われています。

『増訂最上郡史』の中の最上年代記を見ると。

一、宝永 6年(1709)2月12日:肘折村焼く
一、享保 6年(1721)5月11日:肘折村2軒を残し全焼
一、享保13年(1728)3月12日:夜半肘折村残らず全焼

という記述があり、肘折では今でもその恐ろしさが語り継がれています。
(このころは三山信仰が盛んな時で、最初の大火のあった宝永6年は、清水を通る月山への参詣者が、6月14日から27日までの2週間で12,115人もあり、その内先達が1,592人であったという記録があります。)

 わずか20年足らずの間に3回も大火があったということは、当時の村人にとっては相当なショックであったようで、その対策として現在の賀登屋さんのところに防火池を掘り、上から発生しても下から発生しても消し止めることができるようにしたと言われているほか、この頃から夜回り(今でも拍子木を持った村人が夜当番で廻ります)を行うようになったと言われています。

 また、肘折の住民は、防火に力を注ぐことだけでは安心できなかったため、神仏のご加護にもすがりました。

 大火より100年程へ、全く火事が起こらなかったのは、お祀りした秋葉山のおかげだと言うことで、秋葉山の碑」(高さ3.1m、横1.4m)が、火の恐ろしさを後世まで伝えようと建られたと言われています。

 秋葉山は、静岡県周智郡秋葉山上にある火伏(鎮火)の神として有名な『かぐずちの神』を祭った神社のことで、この碑の字は、当時の名僧で、南山に名前の通じる、仙台の瑞鳳寺住職 南山大和尚に、高山武右衛門始め村の数人がお願いに行き、瑞巌寺で断食修行中にもかかわらず書いて頂いたもので、文化14年(1817)3月に建立されました。

 碑文は隷書で、「秋」の字の偏と旁が逆に書いてあり、現在村井家に所蔵されているます。
 不思議に思った村人が尋ねると、南山大和尚曰わく「秋は紅葉なり。紅葉は全山紅く、それは大火を連想させるもの、よって左右をわざと逆さに書いたのだ。」と申されたという伝説が残っています。

【南山((1757-1840)】
 名僧。名は紹岷、古梁、山庵とも号した。俗姓 笹野氏。相模高生郡大澤村の生まれ、高輪東禅寺の洪堂和尚に師事し、重村公と機縁をえて修業にはげみ寛政5年(1793)38歳の時仙台覚範寺に住し瑞鳳寺に迎えられ紫衣(天皇が高僧に下賜する紫の袈裟)を賜る。
 南山詩をもって天下を知られ学者、大名と詩をもって交わる。『天下山水あり 各一方の美を壇にす 衆美帰松州 天下山水無し』『南山に辞世ありやと人といわば 南無阿弥陀仏と申したといえ』等あり。

|上ノ湯(共同浴場)


 大同二年七月十四日に発見されたと言われ(その日を肘折温泉の「開湯の日」としています)、またの名を疵湯(ひえのゆ)傷湯とも言われています。

 ’07-’08 と、東北芸術工科大学、環境デザイン学科 竹内先生や、テキスタイル 辻先生のご指導の下、上の湯前面の改装も行われ、明るくモダンな設えに変わりました。

 源泉は、上ノ湯だけで3本使用しており、その内2本は、上の湯裏「湯ノ倉山」を横堀した洞窟の中から湧き出るという、めずらしい湧出形態を持っています。
(肘折温泉ではこの上ノ湯1号・2号源泉と、当館個人源泉=金兵衛・松屋源泉(松屋1・2号源泉)のみがこの形態です)

 また、上ノ湯源泉は、湧出温度が肘折温泉の他の源泉よりも比較的低いため、湯花(石灰華)が付きにくい無色透明なお湯で、炭酸濃度も高く、手術後の静養に最適と言われています。

 1階は男風呂・女風呂があり、2階は地区集会場兼休憩所となっています。
 入浴料は大人200円、子供100円。(宿泊者には無料の入浴券があります)

 肘折温泉にはこの上ノ湯の他、寛政5年(1793)に発見され、精神的な病気に効果(病は気から)があると言われる下の湯(疝気湯)」と、河原湯」と言う2カ所の共同浴場もあります。
(ほとんど地元の人専用です。)

|朝市


 肘折名物「朝市」。

 山でとってきた山菜や自分で作ったものを地元大蔵村のおばちゃんたちが旅館の軒先に坐って売る、ちょっと珍しい朝市です。

 4月の後半から11月終わり頃まで、毎朝 05:30(10月以降は6:00)から7:30頃まで、地元・朝市組合のおばさんたちが新鮮な野菜や山菜、果物、自分で作った笹巻きやしそ巻き、薬草などを、道端にズラリと並べ、賑やかに朝市が開かれます。

 発祥は江戸時代で、自炊する湯治客は、この朝市で材料を調達し、自炊しながら何日も滞在したといわれています。

|旧 肘折郵便局


 肘折郵便局は、明治26年4月1日開局で、集配業務も同時に行ったようです。

 建物は、昭和12年の建築で、平成7年11月に現在の金山橋付近に移転するまで営業していました。
 窓が逓信マーク(〒)になっているなど、趣のある肘折温泉街のランドマーク的な建物として人気があります。

 現在では、昔語りや、ミニコンサートの他、東北芸術工科大学と連携して進めている「ひじおりの灯ーHijiori Light Project」を中心とする、肘折まるごと美術館構想「肘折プロジェクト」の中核施設として、様々な取り組みな会場として、所有者である元局長さんに提供していただいております。

|小松渕


 肘折温泉を流れる銅山川の下流側にある景勝地で、「昔、この淵に白い大蛇が棲みついて人々に害をなしたので戸沢藩二代目藩主の命により、勇将小山八郎がこの大蛇を倒し、大蛇の血が七日七夜川の水を朱に染めた」という大蛇の伝説があります。

 また、この小松淵と袖山と中心とした一体は、肘折カルデラの噴火でできたトロイデ型火山の火口であるとも言われています。

 新緑や紅葉が水面に映えて、四季折々の彩りが美しい渓谷で、オシドリや、ヤマセミ、カワセミなどの鳥たちや、イワカガミ、ドウタンツツジ、ショウジョウバカマなどの草花も見ることができます。

|肘折ダム


 銅山川流域では最初のダムで、(着工 昭和25年 完成 昭和27年)小松渕周辺の角礫凝灰岩を使用した「手積み」で、文化財としての価値も高いと言われています。

 平成16年 地元旅館組合・商店組合の青年部が手作りで「初恋足湯」を作成しました。(組合4号源泉使用)

|源泉公園


「源泉公園」は、肘折ダム・肘折温泉組合3・4号源泉周辺に国民保健温泉地施設整備事業として平成3年12月に整備されました。

設計者の千歳栄氏は、

源泉ドーム

「山形県は、日本独特の宗教、修験道の拠点であった。その中心は出羽三山で、更にその原型は、葉山・月山・羽黒山でありその総奥の院が「湯殿」であった。源泉景観の中核は、出羽三山の湯殿の巨岩を原型とし、下部を両手合掌の10本の指で支える形とした。その廻りは、縄文時代の信仰遺跡であった環状列石を配した。湯殿と環状列石は密教世界の陰と陽を表現し、豊饒)願うものである。更に外周には8本の丸太柱を建て、天上界と地上界を結ぶ橋であり、魂の回帰を願うものである。ここを訪れ鑑賞される方、礼拝される現世の方に、温泉が生理的に人間の生命を癒してくれることへの感謝と、失われつつある日本人の豊かな精神世界への誘いを願って創るものである。」

飲泉所

「自然の象徴は山、山の凝縮は岩。これが日本人の自然観であった。丸形の石を地球に見立て、石の裂け目より温泉が湧出する形とした。飲泉所の球体は地球を表し、その裂け目より温泉が湧出し、背景には宇宙を表現する曲面をもつ石魂を配した。」
と、設計の意図を語られています。

今は、源泉を囲む岩に背・腰をつけて暖める「腰湯」としても利用しています。

|肘折いでゆ館・カルデラ温泉館

肘折いでゆ館

 平成9年10月1日から日帰りの温泉保養施設として営業しています。
 温泉は、肘折温泉組合2号泉を引湯しかけ流しているている本物の温泉です。

 3階は見晴らしの良い浴室で、2階に休憩室といでゆ館最大の特徴である、「温泉療養相談所」があります。1階には食堂と研修室の他、多目的ホール「ゆきんこホール」があり、180人程の会議、各種講演会、肘折いでゆ寄席、パーティー、ジャズフェスティバル、音楽部合宿など、多目的に利用されています。

 また、肘折温泉の名物の一つとして定着した「肘折人力車」の発着所でもあります。

カルデラ温泉館

 平成6年4月24日営業開始した日帰り温泉施設で、木造平屋建の雰囲気のある施設です。
 飲泉などに使われている炭酸泉と入浴用の高温泉が同一敷地内から湧出しており、自然湧出する炭酸水を活用しての飲泉施設と露天風呂「龍神の湯」が特徴です。

|大蔵鉱山跡


 肘折温泉の歴史は、一方で鉱山の歴史でもあります。
 大蔵鉱山は、1764年から1780年代(明和年間)新庄藩主戸沢氏が、金鉱採掘の目的で初めて事業をおこしたのが始まりと言われています。

 大正2年、この鉱山と古口駅間に延長8里半(26km)の単線式索道を架けて貨物の運搬に利用している記録があり、この時の在山従業員は、3,000人。日露戦争前後から大正の初めにかけては、全国有数の大銅山であったと言われていまが、欧州大戦は終了によって銅価の下落。鉱業界に不況が襲いました
 昭和27年に東邦亜鉛が買収し、以後東邦亜鉛株式会社大蔵鉱業所として発足し、送電線設備するなどの経緯を経ましたが、産出量の減少とコスト高で、昭和35年に閉山しました。

 また肘折温泉より葉山に入った山中にも、江戸時代から永松銅山もありました。

四ヶ村の棚田・ブナ林と長沼

四ヶ村(横道)の棚田

 平成11年7月日本の「棚田百選」に選定され、平成15年2月、「四ヶ村棚田保存会」設立(会長;中島敏幸氏)。 四ヶ村の約130戸、450人内「横道の棚田」20人程で、が耕作放棄地などを借り受け、協同作業をして、棚田を復活させています。

 四ヶ村全体の棚田面積は、全体で約120ヘクタール、そのうち「横道の棚田」は12.5ヘクタールですが、うち耕作面積6ヘクタールしかありません。

 水源は葉山山麓から約5kmを引水した、昔の飲料水で、水中生物が20種類以上生息する(特A環境)の中米を育てており、反収は、6〜7俵と少ないですが、低農薬、はせがけ自然乾燥等により、高単価で取引されています。

 また、 田植え、稲刈り等の体験プログラムのほか、8月の第一土曜日には「ほたる火祭り」が実施されます。

長沼・男沼・女沼の周辺ブナ林


 ブナ林は、北日本における森の最終段階で、「極相林」と呼ばれ、荒れ地からブナ林になるまで少なくとも300年以上かかるといわれています。
 肘折周辺にも綺麗なブナの林が残っていますが、この四ヶ村のブナ林は、集落から近く遊歩道も整備されているため、比較的入りやすく、長沼などの沼とも相まって、四季を通じて美しい景観が楽しめます。

 また、長沼を中心に貴重な昆虫(ルリイトトンボ)等の生息地としても知られていますが、その水源は葉山を源とする湧水で、表面上の少ない流量に比べ良好な水質(BOD)が保たれており、男沼と長沼はつながっているとも言われています。

|永松鉱山

 肘折温泉から南に14km余、銅山川上流域に位置。

 永松開闢由来記(佐藤文書)によれば、「当銅山は慶長16年(1611)、間沢村(現西村山郡西川町)の荒木源内の発見に始まると伝え、源内は水戸堀・立石沢などの抗口を開いた」とあります。

 元和8年(1622)戸沢氏入部以降は、町民請による稼業であったと思われており、寛文年間(1661-73)は江戸銭座の弥左衛門・八右衛門が銅1個16貫目につき役銀2匁で請け負っています。
 延宝5年(1677)にはその源内が永松で大鉱脈を発見し、しばらく源内らが経営しましたが撤退し、後の天和2年(1682)までは大坂の町人大坂屋久左右衛門が銅1個につき役銀6匁で請け負ったと言う記録があります。
 その後一時新庄藩によって経営されましたが、再び大坂町人の若狭屋伊兵衛が元禄元年(1688)まで役銀18匁で請け負い、のち正徳6年(1761)までは仙台藩の阿部小平治が役銀21匁で請け負っています。(増訂最上史)

 元禄16年江戸の勘定所の諮問にこたえた大坂の銅吹屋泉屋(住友屋)と大坂屋の覚書(日本鉱山史の研究)によれば、当銅山の1ヶ年平均の産銅額は、全国243の銅山中、伊予別子銅山(現愛媛県宇摩郡別子山村)、出羽秋田院内銅山(現秋田県雄勝郡雄勝町)についで第3位、80~100万斤(約480~600t)となっています。

 これは元禄13年の小物成之覚(増訂最上郡史)の産銅額が16貫(約60kg)入俵詰9,000個(約540t)、その運上金2,700両とおおむね符合して、この頃が当銅山の最盛期であるとおもわれます。

 この頃がが新庄藩の財政がもっとも潤ったときだそうで、谷口銀山(現金山町)とともに藩財政上、大きな比重を占めていたことを物語っています。

 最盛時には、在山人口が3,000人とも達することがあったと言われています。

 肘折-永松間に寺屋敷という所がありますが、ここには3つの寺院があったといいいます。
 一方「強訴徒党之企」をした首謀者4人が肘折金山(大蔵村金山)と当銅山へ2人ずつ追放されたとか(真室川史)、享保2年(1717)には水呑百姓の家中奉公を取りやめ、翌年より「銅山へばかり出候よう」というような(増訂最上史)、囚人・水呑百姓らの強制労働者が、銅山運営上大きな役割を果たしていたと言う暗い歴史も持っています。

 銅山の南西に十部一峠があり、番所が置かれ十分一役銀を徴収したことが地名の由来と伝えられていますが、産銅は銅山川沿いに北へ下り、清水町村稲沢で舟積みされ最上川を通して送り出されました。

 明和期(1764-72)には合海村の伊藤五郎兵衛がこの搬送を請け負っていた記録があり(増訂最上史)、明治以後は、大正6年(1917)の従業員数1,200人、産銅量800tをピークとして盛衰しましたが、(「山形県鉱山誌」など)、大蔵銅山同様、産出量の減少とコスト高で、昭和36年(1961)廃山となりました。

肘折温泉−温泉ドクターアドバイス(温泉療養相談)

温泉療養相談 肘折温泉では肘折いでゆ館に於きまして、6月から10月までの、第1・3日曜日(不定期開催の場合もございます。下記カレンダーでご確認下さい) 14:00から、認定温泉医 荒川先生(大蔵村診療長)による、温泉ドクターアドバイス(温泉療養相談)を行っています。

 温泉の正しい入り方、保養・療養の仕方を、個別にご指導いただけます。

 1回の開催につき約20名様程度の限定ですので、ご予約はフロントまでお申し付けください。
(健康相談ご参加の方は、肘折いでゆ館の入浴料は無料です。)

6月
5日、19日
7月
3日、24日
9月
4日、18日
10月
2日、16日

*尚、お問い合わせは、当館もしくは
  大蔵村産業振興課 温泉健康相談事業担当(TEL 0233-75-2111)まで

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「金兵衛の宿六日記」